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2004-03-31

サリーのお店

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 娘用に買ったサリー。

さて、ほとんど買い物も観光もする時間が取れなかったインドの旅行だが、三日目の朝、前日のコンサートが無事に終わってほっとしたことから、少し、ホテルの近くを歩いてみようという気になった。
 
 最初ホテルに着いた時には、自分がどんなところに泊まっているのか分からず、そこらへんにおっちゃんたちは寝ているわ、人がごちゃごちゃいっぱいいるわ、家のなさそうな人もいっぱいいるわで、ちょっと怖い気がしたが、インドに慣れてみれば、別に怖くもなんともない普通の、どちらかといえば治安の良いあたりらしいということがわかった。

 近くをぶらぶらすると、突然サリーのお店らしきものがあった。ちょっと覗くと、おっちゃんが声をかけてきた。まだ開かないの?って聞くと、今開けるからちょっと待て、といってばたばたと椅子を下ろしてテーブルを拭き始めた。店構えは立派、品揃えもたくさん・・・。

 おっちゃんは、いきなりフルパワーで、サリーを勧め始める。最初は高いもの、こんなん買えへんわ〜と言うと、どんどん安いものが出てくる。綿よりレーヨン、レーヨンより絹製が高いようだ。そして、私と一緒にいた友達にこれを着ろといって、あっというまに着付けてしまう・・・。またその見立てがいいんだわ。さすがにプロ、生地の見立てもよければ、好みの見立てもいい。。ただし、私の友人に対してだが(爆)。一緒にいた友人というのは、オペレッタの中でサラスバティをやったソリスト。サリーが身に付いているし、大体がソプラニストだけあって「華」があるし、また似合うんだわ・・・。

 で、私は、放っておかれたまま・・・。あの〜〜、私にも見立ててーな、私にも着せて〜な、というと、仕方ないなぁってな感じで、ようやく着付けてくれた・・・・。だが、私が着ると、人形が布巻いているだけに見えるのは何故かしら?? 

 仕方がないので私は自分で好みのサリーを選び、友達はおっちゃんに見立ててもらった布を、これもいいわぁ、あれもいいわぁと(贅沢にも)迷っていた・・・。ちょっと空しかった。美人に生まれればよかった。。

 パンジャビ・スーツが欲しかったが、これはオーダーメードが多いとのこと。朝注文したら、夕方にはホテルに届けてくれるというが、時間がない。ついでに、サリーの下に着る共布のブラウス(サリーの端にブラウス分が取ってあった)もすぐに作ってくれ、しかも私のような外国人には、すぐに着れるように縫ってくれるという。夕方は飛行機だから、残念ながらお断りした。パシュミナのスカーフもあったが、これも時間切れ。

 結局、出発のバスの時刻が迫っていたため、時間切れで十分に値切ることもできず、手を合わせて拝み倒したら、逆に同じように手を合わせて拝み倒されて(ほんま、真似すんなって思いましたが)、でも、おっちゃんがちゃんとまけてあげたからといった言葉を信じて(^^;、大急ぎでホテルに帰った。

 店を出る時おっちゃんの喜ぶ声が聞こえた。朝一番の客が買うと縁起がいいそうだ。だから、絶対に逃したくなかったようだ。ホテルに戻ると、みんなもうバスに乗り込んでいた。二人が行方不明ということで、大騒ぎ。15分遅刻で300ルピーの罰金!って怒られました。ご迷惑かけて、申し訳なかったです。

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2004-03-27

アントンのこと

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 ミニコンサートの続きです。
 
 同じく、スラムでのミニコンサートで、一人の男性と知り合った。彼は、小児麻痺を患った後にハンセン病にかかった元患者である。肢体に麻痺が残り、言語障害がある。彼が話したそうにしているので、声をかけてみた。かけてみてびっくり、彼も又、言葉が少し不自由ながら、英語が話せたのだ。話しを聞くと、彼は、不自由な手でパソコンを教えているという。とても頭がいい。そう言えば、カルテの入力などしている男性に会ったことを思いだした。あー、あの彼なんだ。

 その彼が、ちらしを取り出して、今晩集会があるけど来ないか?と誘ってくれた。ごめん、もう日本に発たないといけないからっていうと、残念そうにする。何かなって見たら、コミュニオンがどうたらって書いてある。コミュニオンは、カトリック教会でいう聖体拝領のこと、プロテスタントだと聖餐式になる。マリアさまが付いていたから、カトリック教会のちらしだ!
  
 ええ?カトリックなの?って聞くとそうだという。洗礼名は?って聞くとアントン(アントニウス)だと言った。そうなんだ〜。まさか、インドに来て伝道されると思わなかったので、少し感動した。私もプロテスタントだけどクリスチャンだって言って、あなたのことお祈りしますって言うと、アントンは、イエスはいつも私たちのために祈っているよって言った。

 その言葉を聞いた瞬間、うゎーと涙がこぼれそうになった。どうみても、私に比べて遙かに不自由で、過酷な状況にあって、過酷な生活を送っているのに、どうしてそんな言葉が出るんだろう・・・・。
 励ますつもりの私の方が励まされてしまった・・・。

 

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少女

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アーバンヘルスセンターにいた少女 隣はお母さん。

 アーバンヘルスセンターで行ったコンサートの続きです。
 コンサートには、子供たちもたくさん来てくれた。普通日本だと、子供というものはじっとしていないもの、すぐに走り回るか、飛び跳ねるか、騒ぐか、泣き出すか・・・。ともかく子供相手は大変だ。
 ところが、ここインドでのミニコンサートでは様子が違う。子供たちは、じぃっと座ったまま、唖然とした目で見つめている。動かない、泣かない・・・。じぃっと座ったままだ。家に帰ってから、ダンナに言うと、「そら、小さい頃から身に付いているんやろ」という。「何が身に付いているの?」と聞くと、「そら、動いたら腹減ることに決まっとるやろ」といった・・・・・。
 栄養状態がぎりぎりらしく、動くだけの余分なエネルギーが全くないのだ。走り回らない子供を見て、ショックを受けた。一緒に行った、看護士さんに聞くと(頭を触るとすぐに分かるらしい)、みんな未熟児で生まれているそうな・・・。

 その中にいた、女の子としゃべった。彼女の名前を忘れてしまったが、英語が話せたからだ。スラムでは普通は英語は通じない。やりとりをしていると非常に賢い子だということが分かった。ヒンディ語とタミル語(彼女の母国語)と英語、三カ国語しゃべれるなんてすごい〜というと、にっこり笑った。非常に人なつこくて、面白くて、明るくて、笑顔の素敵な少女だ。
 丁度手首の内側に、綺麗な文様がある。これはメヘンディといって、インドの女の子たちがヘナという染料で描くおしゃれの一つ。結婚式の花嫁は腕中にその模様を描くらしい。彼女の腕にある模様もとても美しい。唐草模様だ。彼女は絵が好きで、よく友達にも描いてあげるという。今度、インドに来た時に私にも描いてくれると約束してくれた。
 何か、記念にちょうだいというのだけど、何もあげるものを持っていなかったので、義妹が作ってくれたビーズの指輪をあげることにした。ものすごく気の毒がったけど、いいよいいよって言ったら、大好きよって言ってくれた。

 帰り際、また会おうねって手を振ろうと、振り向いてびっくりした。彼女は、脚が不自由だった。座っていたから、分からなかっただけだ。お父さんに抱えられながら、帰っていった。

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あたしゃカメか

 ムンバイ行きの飛行機で出会ったMr.Rajuとは、なぜか文通が続いている。こちらはヒンディ語を教えてもらい、向こうは日本の会社とビジネス提携するらしく、日本語が習いたいという。メールでのやりとりなので、かなり不便ではあるが、一応互いの言語はローマ字でのやりとりとなっている。

 日本語は、男言葉と女言葉がはっきりとしているため、私に習うMr.Rajuは「おねぇ言葉」のヘンな日本語を話すインド人になるかもしれない(^^; そう思って、言葉を再確認してみると、これが結構難しい。いちいちダンナに確かめてみると、「そんなん男同士で言わへんわ」と言う。「じゃぁ、何て言うの?」と聞くと、「何も言わへん!」という。普段何をしゃべっているのだろうかと、謎が深まった。日本男児は寡黙らしい…。

 先日誕生日だ〜と言ったら、Mr.Rajuから誕生日おめでとうの言葉が送られてきた。
 ヒンディ語で、Tum jio Hazaro sal oor sal ke din ho dash hazar ! というらしい。その意味がすごい!
 なんとヒンディ語の「お誕生日おめでとう」を直訳すれば「あなたは千年生き、これから一万年も生きるでしょう」となるという。

 あたしゃカメか…。というのは冗談だが、つまりは、ヒンズー教では(特にインドの上位カーストの方々は)来世の生まれ変わりが無条件で約束されているからそうなるのかなぁと思った。

 それにしても、一万年生きるのって疲れるだろうなぁ。

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2004-03-23

不可触民とカースト制度

インドから帰ってきてから、いくつかインド関係の本を読んだ。

 特に、不可触民及びインドのカースト制度に関する本を三冊程読んでみた。三冊ともとても読みやすく、一日で読めます。いやー、奈落の底に落ちました。いきなり、目の前に底の知れない闇が広がったという感じで、しばらく、消化するまでに時間がかかった。

 「不可触民 −もうひとつのインド−」 山際素男 (知恵の森文庫)
 名著と言われているメルクマール的な本。確か、学生時代にも読んだ覚えがある。そう、この本は、1981年刊行、今から20年ほど前に出版された本である。20年経って、今も同じ状況とは思えないが、その一面、農村部ではあまり変わらないのではないかという思いもする。外国人(私のことです)が見ることのできないインドの衝撃的な一面をかいま見せてくれる。

 「インド 宗教紛争とカースト社会 シリーズ・アジアを見るジャーナリストの目」丸山庸雄 (梨の木舎)
 先日紹介した映画「ボンベイ」で扱われていた宗教暴動について、ジャーナリストの目から記した本。ある意味、映画の話しは一種の「夢物語」であることを教えてくれる。同時代に生きたインディラ・ガンジーについて筆者の目から見たレポートもある。一般にはブラマン階級が自己利益のためにインドを支配しているといった意見があるが、この本を読むと、そういうレベルを超えたところで、統治者にとっていかにインドを治めることが難しいか、考えさせられた。

 「不可触民とカースト制度の歴史」小谷 汪之(明石書店)
 三冊の中で一番、衝撃の大きかった本。淡々と事実が述べられ、それに対する学問的(聖典)裏付けがボディーブローのように効いて来る。

 カースト制度とは何か、何が基盤になっているのかについて、古代の聖典に遡ってその源流を探っている。2000年前の聖典に書かれたことが今なお社会的の隅々に影響を与え、人々の思考を支配していることに愕然とする。なぜ不可触民が、女性が差別されるのか、その精神的構造と社会構造、非常にわかりやすくまとめられている。

 そのカースト制度がなぜ衰退しなかったか、少なくともそれを打ち破る機会はあったのに、できなかった・・・、その答えはイギリス植民地支配にあった。カースト制度を植民地支配に巧みに利用したのである。 「インドはイギリスの宝石」という言葉の裏の意味を知って衝撃をうけた。それはイギリスがいかに熾烈で過酷な搾取を行ったかを意味しているからだ。

 高校の時に歴史の時間に習った「セポイの反乱」。この反乱がいかに歴史的に大事件であり、大きな意味をもっていたのかが改めて知らされる。そう、インドでセポイの反乱が起こったおかげで、日本は助かったのかもしれない。イギリス植民地支配政策(極東に対する)を根本から変えさせた大事件だったのだ。
 
 でも一番の衝撃は、「ガンジー」を否定していることだろうか。ガンジーは非暴力でイギリス植民地支配からインドを解放した偉大な人物。それに対する評価に変わりがない。しかし、ガンジーの限界は、「ヒンズー教」を温存したことにある。自分はブラマン階級出身であり、ヒンズー教的精神世界から抜け出すことができず、むしろ肯定さえしていた。不可触民を「ハリジャン(神の子)」と言い換えたことは、単なる言い換えで問題のすり替えである、不可触民は「アンタッチャブル」と言われることをむしろ肯定し、「ハリジャン」と呼ばれることを拒否する。なぜなら、本当にそう(アンタッチャブル)だから。インドで起こった留保制度(特定の被差別共同体に一定の優先枠を与える)が、むしろ、他の国々で成功していったことも皮肉である。

 三冊続けて読んだので、内容が混乱しているところもあるかもしれません 
 小谷書はわかりやすく文書による裏付けもあるが、どちらかというと他の二書に比べれば学問的なので、他の二冊で背景や実態を知っておくと、より理解が深まるかもしれません。少なくとも、なんでなんでこんな悲惨なことが・・・の意味を探ろうとする動機づけにはなると思います。

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ストリートチルドレン

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 子供たちによる少林寺拳法

 三日目の午前中、一日目に訪れたスラムでのミニコンサートを行った。
 
 これは、その中で行われた、別のNGO団体による少林寺拳法の実演。少林寺拳法を教えているのは、日本からインドに行っている日本人学校の先生。このNGO団体に協力しているのだ。この子たちは、みんな、ストリートチルドレンである。

 インドには、家がなくて路上で寝起きしている家族、子供たちがたくさんいる。そういう子供たちを集めて、読み書きの識字教育や少林寺拳法を教えているそうだ。ストリートチルドレンたち、路上で寝起きしているため、暴力の被害に遭いやすい。女の子などは、回りの大人たちから性的な暴力を受けることも多い。そういうのがきっかけになって、路上で生活するようになる子たちもいる。

 この先生は少林寺を、護身用に子供たちに教えているという。女の子が多いのは、そういう理由もある。みんなにこにこと、時には照れながら、少林寺を披露してくれた。この子たち、実は、前日のオペレッタ公演の第二部で、リコーダーでも「Sing」を一緒に演奏してくれた。まだ幼くにこにこと笑う笑顔の向こうに、どれだけ過酷な人生が隠されているのだろう。想像することさえできない。

 

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2004-03-22

友有り 遠方より来たる

中学校の時の漢文で習ったような・・。友有り、遠方より来たる。また楽しからずや。嬉しからずやだっけ。

 このところ、久しぶりに友達に会うことが多かった。それも、皆、5年ぶりとか、はたまた気がついたら10年ぶりとか・・・。10年経ったとは思わなかったけど、数えてみると10年。会えば、すぐに当時に戻れるのは嬉しい。

 ということで、このところ、気持ち的にはハイテンションを通り越した、ハイパー・テンションである。先日会った友達は、10年前に福岡に通訳で行った時、知り合った同業者。大いに笑い、語り合って、たくさんの刺激をいっぱいもらった。ありがたい。

 ハイテンションのまま、通りでもらったチラシをもって、ふらっと英会話学校の体験入学にでかけた。別に入学するつもりはないが、ふと、欧米人と話したくなったからだ。まさか、町中でいきなりナンパするわけにもいかないし〜。インドで、ずっと眉間にしわを寄せてインド人の英語を聞いていたせいで、実は、英語能力が落ちたのじゃないかと、密かに不安に思っていたからだ。

 結果: あー、楽しくフリートークさせていただきました。なんだ〜、やっぱ、私じゃなくてインドが問題だったんだ(^^;〜。ついでにレベルチェック(40分の口頭諮問)なんぞ受けたりして、ご機嫌で帰って来ました。

 そう言えば、ずっとずっと昔、それこそ仕事を始める前、そこここにある英会話学校に片っ端から出かけて、体験入学していたことがあった。その中には、今は影も形も残っていないスクールもある。20分程フリートークすると、お定まりの料金説明。あれから、10年以上経って、バブルも崩壊したのに〜、デフレなのに、なんでなんで、英語学校の料金って、10年前とあまり変わらないんですけど・・・・。

 身の回りに英語環境を整えていた頃もあった。が、外国人は3年程すると本国に帰る。せっかく友達になっても続かない。また1から友達みつけるのとか、話し相手を捜すのとかって、いい加減疲れて来て、ここ2年程はそういう英語環境を整えていなかった。そういえば、同業者の友達も投資していたなぁ。やっぱ、お友達になりましょう〜とかってナンパできる(←同性です、念のため)お年頃ではないんですかねぇ〜。

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2004-03-20

サラスバティ

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 今、インドから送られてきた写真です。
 これは、オペレッタの中に登場するインドの神さま、サラスバティ。
 サラスバティは、サラスバティ川という川の神さまであり、芸術や音楽、学問の神さまでもあります。ブラフマーというヒンズー教の創造神の奥さん。このサラスバティがもっている楽器は、ヴィーナーといって、シタールの原型になった楽器だそうです。このヴィーナーが「琵琶」になり、サラスバティは、日本に来て「弁財天」となりました。

 オペレッタの中では、サラスバティと弁財天、共にソプラノパートで、綺麗な二重唱を聴かせてくれました。もちろん、サラスバティのアリアもありました。この写真は、アリアを歌っているところ。サラスバティの後ろには、クジャクの羽と、二本の腕、片一方には聖典をもっているのですが、がついています。

 サラスバティの後ろにいる、半裸の男性が「大仏」。その後ろにいるのが弁財天楽団の一員の筆者です。
 弁財天やガネーシャやシバ、楽団全員の写真もそのうち到着する予定です。

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酔っぱらいのいない町

終演後、大慌てでホテルに帰り、夜の10時からディナーパーティが始まった。インドの夜は長いらしい・・・。

 そうそう、インドでは宗教上の理由からか、ほとんどの人がアルコールを飲まない。町でもあまり売っているのを見かけない。前日の夜、「ハンディ・クラフト・センター」での帰り、渋滞でタクシーが進まないので夜の町を少し歩くはめになったが、夜遅くまで、何をしているのかわからないが、ともかく人があふれていた。ただし、日本と決定的に違うのは、酔っぱらいがいないこと!酔っぱらって通りに寝ている人もいない(普通に道路に寝ている人はいっぱいいるが・・・)。酔っぱらいに絡まれる心配がないのは、大きな安心だった。

 ホテルではアルコールは飲めるので、ご安心を・・・。

 ディナーパーティでは、立食。傑作だったのは、私たち日本側は来賓が先に箸をつけるのを待っており、インド側は私たちが箸をつけるのを待っていたこと。インドではレディーファーストらしく、女性が箸を付けないと男性は食べられないのだという。一時間程して、しびれを切らしたインドのお医者さんが私のところにきて、「もう待てない。レディーファーストだから、あんたたちが食べてくれないと、わしらは食べられへん!」と言った。すんません。知りませんでした。ということで、パーティはますます遅くなった。一通り食べて、しゃべって、終わったら、夜の1時だった。

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2004-03-19

インド旅行記−公演

いよいよ、オペレッタ公演の当日がやってきた。まだ写真がないので、写真は後で載せることにして・・・。

 朝からは自主練習、午後からは少し時間をとって、別の場所にて、今度は日本側からのセミナーを行い、ハンセン病の元患者の歩んだ歴史的経緯や置かれている状況についての説明、及び、別の精神障害者施設の看護士による歴史的経緯と現在の状況について説明を行った。

 さて、いよいよオペレッタ公演のリハーサルが始まった。年季の入った建物で意外ときれいな小ホールだった。照明の打ち合わせで、舞台の責任者・技術者たちが集まってきた。なかなかライティングの説明がうまく伝わらない。挿入してもらう音楽もちゃんと入るのだろうか?OKとは言うが、本当にOKなのか、本番は大丈夫なんだろうかと心配する。今回のオペレッタには、インドの神さまがいっぱい登場する。川の女神のサラスバティ、ご存知ガネーシャ、そのおとうちゃんシバ神。シバ神は、舞踏の神さまでもあるため、劇中、ブレークダンスを披露する。もちろん日本の神さまも登場する。弁財天に大仏。そして弁財天楽団。インドの神さまが登場することがわかって、インド側の技術者たちは、がぜん張り切りだしたようだ。音響担当のおにいちゃんが、マイクもってどんどん舞台に上がって、それぞれの楽器に全てマイク付けてくれた。

 一番心配なのが、ライトが消えて真っ暗になること。ピアノとキーボード担当は、楽譜が見えないので死活問題だ。絶対に真っ暗にしないでくれと頼む。ピアノは、一応調律してあったが、なかなか凄い代物だったらしい。遠くから分解されたピアノがトラックで運ばれてきた。リーダーが思わず「88鍵ありますか!?」と叫んだ。むべなるかな。私はピアノを弾かないからわからないが、鍵盤ごとに音のなる位置がばらばらで、押しても鳴らなかったり音が大きすぎたり小さすぎたり、本番直前までピアニストはピアノと格闘していた。

 いよいよ本番直前に、舞台の責任者が、サラスバティとガネーシャの衣装を直してくれた。サラスバティは、わざわざ日本から、東急ハンズで一本200円で買ったくじゃくの羽根を20本背中にしょっている。その上、マネキンの腕二本もしょっている。まるで、宝塚のレビューみたいな派手なかっこう。もちろんサリーを着て、頭にはきらきらの冠をかぶっている。このクジャクの羽、税関を通るたびに「こりゃ何だ?」と聞かれた。「ピーコック・フェザー」と答えると、一斉に「ピーコック」「ピーコック」といってにこにこ通してくれた。衣装のサリーが、これがまたよく似合っている。インド側の舞台責任者によれば、サラスバティは「パーフェクト」だそうだ。本当は、裸足じゃないといけなかったらしいが、ご満悦の様子。

 ガネーシャは、さすがにインドで人気の神さまだけあって、こだわりがあるらしい。まず、衣装の下にジーンズをはいていたのが、どうしても、絶対にダメだという。オレンジか白、黄色っぽいズボンはないかという。そんなものはないというと、スカートでいいという。ちょうど、私がオレンジのロングスカートをもっていたので、それでいいかというと、それを着て、脚の布を安全ピンで留めたら、ズボンみたいになるからそれで大丈夫だという。靴も脱げと言われた。それからが大変。ガネーシャは布袋さんのような大きなお腹をしているのだが、お腹の位置がおかしいという。そんな妊婦みたいな腹ではだめらしい。もっと上の方、胃のあたりからぽっこり出ていないとダメという。もう本番が始まるし、ピンが10数本ついているから、今から脱ぐのは無理だというが、絶対に聞いてくれない。自分がちゃんと詰め物をしてやると言ってきかない。

 舞台上では最初の挨拶が始まっている。インドの舞台責任者は、「そんな挨拶なんか10分やそこらでは終わらないから大丈夫」と言って、とうとうガネーシャを拉致して楽屋に連れていってしまった。気が気じゃない。もう始まるよう〜〜!

 数分後無事にガネーシャは舞台の袖に戻ってきた。はぁ〜〜間に合った。

 公演は、大成功。日本でやった時は、どちらかというと観客は唖然としていたが、さすがインドではインドの神さまが出てくるとやんやの大喝采。とても楽しんでくれたようだ。照明も音響もパーフェクト。さすがインドのプロでございました。おみそれしました。ただし録音するの忘れちゃったけどね(爆)。

 第一部のオペレッタ公演に続いて、第二部も、無事に終了。第二部では、主に日本の曲を紹介した。そうそう、見事なブレークダンスを踊るシバ神、日本では看護士なのだが、英語がしゃべれない。自己紹介の英語を教えてくれというのだが、「僕、ほんまにあかんのですわ」という。彼の場合、このさい英語でもヒンディー語でも一緒だわと思って、「ヒンディー語で挨拶せーへん?」といって、ヒンディー語で挨拶してもらうことにした。ヒンディー語と日本語は、実は良く似ている。語順が一緒なのだ。「です」にあたる言葉もちゃんとある。発音もそれほど難しくない。そこで、紙にカタカナで書いて、それを言ってもらうことにした。これは、会場に大いに受けた。ちゃんとわかってくれたようだ。

 終演後、インドの舞台責任者に話を聞くと、実は、昔、ガネーシャを演じたことがあるんだそうだ。道理でこだわりがあるはずだ。またどうやったらうまくガネーシャに見えるかもよく知っているはずだ。昔は舞台に立っていたらしい。そのうち、舞台上のピアノから「ジャズ」が聞こえてきた。照明係の技術者の一人はジャズのピアニストだったらしい。舞台責任者の友達なんだそうだ。ピアノなんて滅多に触る機会がないから、今、舞台上で空いたピアノを、一生懸命弾いているみたいだ。もうピアノに触るのが、嬉しくて嬉しくて仕方がない様子が伝わってきた。

 

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2004-03-16

インド旅行記−愛すべきインド人(1)

 この3日間、面白いインド人にたくさん出会った。いや、面白がっているのは私の方かもしれない。商魂たくましいインド人、ぼったくりを見破られても悪びれないインド人、小細工が見え見えなのにしらっとすましたインド人。どちらかというと新大陸(アメリカ)で時折感じた陰湿で寒々しい差別に比べれば、インド人の狡さが可愛く感じられるから不思議だ。

 一日目(まだ一日目なんだ!)、ターミナル・ケア・センターから戻ったら夜も9時だった。本来なら買い物をするはずだが、バスのトラブル続きで、移動にものすごい時間がかかる。何人かが買い物に行きたいといい、土産物やのおじさんが待っていた。今日は遅いからと言うと、明日でもいいという。だが、明日はコンサートの本番、今後のスケジュールを考えると、時間が取れそうにない。

 バスは戻ってしまい、タクシー(インドではコウチcoachと言うのですね)に乗り合わせて店に出かけることになった。タクシー代を払おうとすると、よく聞き取れない。てめー、わざと分からないように言っているなって思うが、聞き取れない。もしかしてヒンディー語?相場の分からない私は思わず80ルピー?と聞き返した。その時、運ちゃんは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。やばい・・・。丁度そのときだった。店の店長がやってきて代金を払ってくれた。背中に運ちゃんの舌打ちが聞こえるようだった・・・。

 「ハンディークラフトセンター」という外国人相手の高級土産物屋だ。
 店構えが違う。一階には高そうなペルシャ絨毯。おいおい、ちょっと違うんじゃないかと思うが、後の祭り。二階に通されると、店員さんがわっと寄って来る。ほとんど、飛んで火に入る夏の虫状態。申し訳ないのは、財布にお金がないこと。この旅行全行程の食事代を含めて私は、日本円で3万しか持って来ていない。ほとんどはホテルに置いてある。買いたかったパンジャビスーツなどみるが、日本円で1万5千円。それほど目を引くデザインでもない。買えへんっちゅうに。。渋っていると、1万3千円にしてくれるという。そのうち、「友達ね〜」とか言い出す。あたしゃ、あんたと友達になった覚えはない。。「友達価格」は9千円まで下がった。まぁ、3000円なら買うわって言うと、手を振ってあっさり引き下がった。さすがに底値はあるらしい。

 でも、考えてみたら我が京都にも「ハンディクラフトセンター」がある。外国人相手で、高級品が置いてある。最近行ってみたら、少し手頃な値段になっていたが、以前はとても手が出ないようなものが置いてあった。本物の象眼とか、本物の西陣織とか。京料理だって、地元民でさえ手が出ないほど高い。
 京都という町も観光で食べているのだし、こちらも一緒かも。

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男女同席せず

今日は、アメリカ在住の友達が来て、夕食を共にし、楽しい時間を過ごすことができた。4時間も話しこんでしまって、ふと時間に気づいた私はびっくりだったが、実は、彼女とは今日が初対面。普段は、インターネットを通じて、一緒に翻訳の仕事をやっている。

 彼女の住む町は、IT関連の企業が集まる都市。最近は、IT関連でインド人が増えたという。インド人って、男女一緒に歩かないでしょうと言われ、そう言えば、(男女交際も)オープンじゃないみたいだねぇって言うと、それはアメリカでもそうらしく、男4人とかのグループが、それもあちこちで、お茶飲んでいるので、非常に目立つのだという。確かにアメリカじゃぁ、目立つわなぁと、思わず笑ってしまった。
 
 メル・ギブソンの「Passion」という映画。キリストの最後を忠実に描いたという話題の映画で、次々と興行記録を塗り替えているという。早速見に行った彼女によれば、ティッシュ無くして見られないらしく、5月の公開が楽しみ。日本じゃ、マイナー系の映画になるだろうから、早めに見に行かなきゃ。

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2004-03-15

街角で

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大きなリヤカーに乗せているのは?

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右端にあるのは、卵。
上からぶら下がっているのは、ジュディ・オングもどきの人形らしい。

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2004-03-13

インド旅行記−死に場所

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AIDSのターミナルケアセンターの女性たち

 ジョティス・ターミナル・ケア・センターに着いた。ここはカトリックが運営する組織である。中へ通されホールで、シスターの話を聞く。ここにいるエイズの患者は38名、うち3名が男性である。ハンセン病の患者が共同体の中で曲がりなりにも生きていけるのに対して、完全に共同体から疎外・放逐されるのがエイズ患者だ。女性たちの多くは、元売春婦であり、夫や子供のいる人も多く、うち26人が子持ちだった。しかし発病したとたんに、女性だけが共同体から放り出される。家族とは絶縁状態、子供には一切会えず、家族が見舞に来る人は全体の1割、たった3人ほどだという。亡くなる直前になっても、会いに来る人はいない。

 ここで患者がすべきことは、免疫力を高めるために栄養のある食事をきちんと食べ、部屋を清潔に保ち、後はテレビを見ることぐらい。外に出ることはできないので、本当に、死を待つだけの家である。ここは病院ではないので、医療行為はほとんどなされていない。何もせずにただ死を待つだけというのに、釈然としなかったが、彼女たちにとっては今までの地獄のような日々のなかで、おそらく今が一番平和な日々なのだろうと言ったある人の言葉に、切なさを覚えた。

 宗教に関係なく、亡くなると火葬にふされるという。患者からは一切のお金をもらっていない。全て寄付や基金からまかなわれている。4人のシスターだけで運営されており、料理も食事も患者と共に行い、一緒に生活している。

 チャイとサモサを頂いた後、ミニコンサートを開く。女性15名、男性3名の患者さんが聴衆。比較的というか、かなり元気な患者さんばかりで、にこにこと私たちのコンサートを見てくれる。一人ずつが三人の患者さんのところへ行き、名前を覚えることになった。といっても、名前を聞くのが精一杯。その名前も、英語風の名前はすぐに覚えられるが、ヒンディ語の名前は何度聞いても頭に定着しない。一人は、マギーという名前だった。

 独唱「荒城の月」、フルート演奏と歌の「ラルゴ」、三重唱の「野薔薇」、一生懸命覚えたヒンディ語の「青い山脈」(全員)、ブレークダンスなどが披露された。インドのこの地でこの状況で聞く「荒城の月」。荒城の月という歌を聴いたのは何十年ぶりというほど久しぶりだったが、美しい歌声と哀切なメロディ・歌詞がしみじみと心に沁み、涙が出てきた。ヒンディ語で歌った「青い山脈」だが、ヒンディ語だと認識してもらえなかったのが笑えた。

 私たちがコンサートをやっている間、ある看護士がシスターに呼ばれた。丁度コンサートをやっている壁を挟んだ反対側には、昏睡状態にある末期患者アニータさんが寝かされていたという。簡単な処置は行われていたが、病院ではないのでたくさんの管がついているわけではない。名前を呼んだが、返事はなかったという。私たちの歌声は届いていたのだろうか。

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2004-03-11

インド旅行記−郊外の町

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ちょっと、ぼけていますが・・・。

 やっとこさ高速道路を降りて、郊外の町中に入る。
 ここは大きな道路が碁盤の目のように走り、のんびりとした雰囲気。マクドナルドがある。スターバックスもどきのカフェも見える。店の外には木製の丸い机に椅子がバルコニー風に並んでいる。日本でみるのと同じデザインだ。

 制服を着た女の子たちが学校から帰って行く。笑顔がまぶしい。カメラを向けるときゃっきゃと顔を隠す。男の子たちも同様。中学生ぐらいだろうか、まるでちょっと前の息子と同じ年代、仕草も行動も驚くほどよく似ている。

 お父さんが子供を自転車に乗せて走っていく。自転車に乗っている子供たちもいた。その姿からして、ここはムンバイでも中産階級以上が多く住む郊外の町なのだろう。

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インドの「釣書」

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 壁紙など欲しくて、インドのヤフーに時々行ってみます。なぜかベッカムが清涼飲料水を持って立っているだけのシンプルな(?)壁紙があったりします。いえ、私は、ベッカム目的じゃなくて、映画の壁紙が欲しかったんですが・・。

 ある時、インドヤフーに出かけると、広告が飛び込んできました。花嫁or花婿、年齢が選択できる、つまりは結婚お見合い斡旋サイトです。面白いのが、community(共同体)を選択しないといけないこと、ヒンディーなのか、イスラムなのか、クリスチャンなのか、仏教徒なのか、ジャイナ教徒なのかシーク教徒なのか・・・。ヒンディであれば、さらに母国語(育った地域)は何かまで、事細かに・・。

 適当に選んで検索してみると、出たのは、さらに細かな「釣書」 もちろん写真付き。
 身長から肉付きから、容姿はもちろん、母国語(インド国内の)、サブカースト、宗教、ベジタリアンか否か、飲酒するか否か(結構、大切らしい)、職業、役職、年収まで書いてあります。ベジタリアンか否か、飲酒癖等は、宗教に関わる大事なことです。

 インドではお見合い結婚が一般的で、ふつう親同士が決めるそうです。この釣書も、ほとんどの場合が、親や友人、親戚が出しているようです。カースト外の結婚も少しずつ増えているようですが、やはりまだまだ少ないようで、クリスチャンや仏教徒などに多いそうな。

 カーストが違う同士が結婚した場合、夫のカーストの揃うそうです。子供は、お父さんのカーストになるそうな。だから、女性が高いカーストの場合、低いカーストの男性を避ける傾向があるそうで、どんどん結婚する機会が減るそうです。

 映画や本なのでインドの複雑な事情を知ると、この「釣書」にも、しみじみ、笑うに笑えない深刻な状況がかいま見えます。

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2004-03-09

インド旅行記−なんと、高速道路に!

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一見、なんの変哲もない、インドの高速道路だが。

 ホテルに戻り、お昼のバイキングを食べた後、3時頃から出発。なんと、先ほどのミニバスが戻って来た。修理が終わったというのだが・・・・。
 
 次に行くのは、ジョティス・ターミナル・ケア・センター、ホテルからは2時間近くかかるらしい。ミニバスに乗りながら、町の中を眺める。道ばたの簡易床屋さん、大きな台車に野菜をいっぱい載せた物売りのおじさん、お花やさん、見ているだけで飽きない。

 いつしかバスは、インドの高速道路に入った。おお、ちゃんとした高速道路があるんだ、ちゃんと料金所もあったし、行き先を示した大きな看板もある。中央分離帯もあって、片側4車線ほどの広い道路だ。町中の道路とは違い、さすがにここでは少しスピードが出せるようだ。

 日本と違うのは、路肩からあまり離れていないところに店が並んでいること。そしてなんと言っても高速道路に「横断歩道!」があることだ。思わず笑ってしまった。さすがに幅の狭い2mほどの横断歩道。でもちゃんと縞模様になっている。こんな高速道路どうやって渡るのだろうと思うが、中央分離帯には、向こう側に渡るつもりの女性や子供たちまで、じっと待っている。車が切れるまで待っているのだろうか。ちゃんと渡れるのだろうか。

 高速道路を快調に走っていると、何やらエンジンの調子がおかしい・・・。と思うまもなく、高速道路上でエンコした。運転手が直すが、どうもミッションが高速に入らないらしい。低速ギアのままブンブンとすごい音を鳴らしながら、高速で走ろうとする。エンジンから火を噴くのではないかと冷や冷やした。朝からのエンコ続きで、もうどうにでもして〜っという気分になった。

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2004-03-08

生活のにおい

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 スラムの全景(その2)
 雨期とかどうするんだろう〜。

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 スラムの近景

 やっと、写真を並べる術を覚えました〜。

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インド旅行記−アザーンの響き

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これは、ヘルスセンターの屋上からみた、スラムの全景です。

 スラムの近くにあるアーバンヘルスセンター(病院)に着いたが、「ハンセン病科」という独立した科が存在するのを見て驚いた。アーバンヘルスセンターの奥、二部屋に案内される。奥の部屋にはパソコンが置いてあり、カルテの入力が行われていた。手前の部屋の机の上には、いくつかのリハビリ用器具が置いてあり、それぞれについて説明を受ける。どの器具も手作りの簡単なもので、「バネ」の力を利用している。手首に固定具をはめ、そこからゴムで繋がった輪っかを指にはめる道具は、変形した指を戻すと同時に、使いやすい位置に固定するものだった。同じく、プラスチックの反動を利用して、曲がった指を元に戻すもの、脚につける器具などの説明をうけた。この道具は、全て手作りで、患者に貸し出している。患者は、この器具を、一日で最低6時間以上装着しないと、効果が出ないという。

 さらに、ここには投薬用パッケージもあった。長方形のプラスチックベースに薬が等間隔にパッキングされており、その上に数字が付いている。一日目にこれだけ、二日目にこれだけ、二週目はこれだけという、服用する薬の量と種類が数字で一目で分かるようになっている。一パックで一ヶ月。薬の種類としては、治療薬と身体機能低下を防ぐ薬、二パックが用意されているという。これらの薬は、全て、なんとあの笹川財団が全世界のハンセン病患者に対して無償提供しているという。繰り返し尋ねたが、やはり全世界だと言われ、その貢献度に度肝を抜いた。

 一週間に二回、患者たちが治療を受けに来て、これまでの3000人が完治したという。ハンセン病の患者の治療には約1年かかるが、田舎からスラムにやって来た人は、数ヶ月しか同じ場所に住まないため、継続的な治療を困難にしている。デリーや他の都市からもムンバイのスラムにやってくるため、他都市圏からの患者の流入が著しい。ムンバイにやってきて、とりあえず住むところと仕事を探すとなると、まずスラムに住み着くという例が多いからだ。

 次に、屋上に行って、スラムの全景を見渡す。スラムの家を一軒一軒尋ねて、患者を捜し、フォローを行っている女性の話を聞く。一面のトタン屋根、広大だ。ここに60万人が住んでいるらしい。後日、他のNGO団体のワーカーをやっている女性に伺ったところ、小さな家に10人、時にはそれ以上の家族が一緒に生活しているという。屋根の上一面に洋服を干している家、物を売っている家、いろんな職業の家がある。ハンセン病患者は、自分の病気のことを「stigma(聖痕転じて天罰)」と考える傾向があり、なかなか自分から見せにくることはないらしい。主に、皮膚に現れる「色斑」を手がかりに、ワーカーが一軒一軒訪ねて回って、患者を捜すのだそうだ。

 丁度、お昼も1時頃だった。ふと気が付くと、「アザーン」が聞こえてきた。「アザーン」とは、イスラム教の1日5回の礼拝の前にモスクの尖塔から歌うように呼びかける礼拝の呼びかけ声のこと。そこは、スラム、モスクの尖塔などあるはずもなく、拡声器からの声だったけど、とても心地よい響きだった。

 そう言えば、昔の日本は明け六つと暮れ六つ、お寺の鐘がごーんとなった。ヨーロッパでは、カトリック教会の鐘がからんからんと鳴る。イスラム教では、時をつげるのはアザーンの響きなんだ。
 でも、時計のない頃、日本みたいに夏と冬で日の長さが違う場合、どうやって、鐘を鳴らす人は、明け六つと暮れ六つを知ったんだろう。雨の日とか?謎は尽きない・・・。

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2004-03-07

インド旅行記−ミニバス故障

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 真ん中にあるのがインドのタクシー。

 BLPのトレーニングセンターを見学した後、アーバンヘルスセンター(病院)に移動することになった。しばらくミニバスに乗っていると、突然、バスがエンコした。なんと、ギアが壊れたという。しばらくスラムの近くの商店街で時間を潰すことになった。が、昨晩遅く着いたばかりの初めてのインド。いきなり商店街に放り出されても、様子を見て雰囲気に慣れるのに時間が必要だ。あれこれ見ていると、向こうもこちらをじっと観察しているのが分かる。ガネーシャやサラスバティなどインドの神さまの原色写真を買おうと思うが、どうしようかと迷っているうちに時間が迫ってきた。サリー、緑色のとても綺麗なのが200ルピー(600円)だという。値段の交渉しようかと思っているうちに、みんなが移動し始めた。どうやらミニバスは復旧の見通しがつかないので、タクシーで移動することになったという。

 あっという間に皆が先に行き、見失いそうになる。ここで迷子になったらどうすんねんと思い、走る。大きな四つ角で、Mr.Kingsleyさんが止めてくれたタクシーに乗った。インドのタクシー、小さな箱形のちょっとレトロな車。冷房はない。タクシー、いや、ムンバイの車はすごい。第一、車線というものが存在しない。道路の幅いっぱいに車が走り、急発進に急停車。信号は少なく、守られているようにも思えない。クラクションと、運転手さんの(「わしゃ、あっち行くんじゃ〜?)というような自己主張する声、方向指示器代わりに窓から出す手(自転車と一緒やんか〜)によって、なぜか事故も起こらず車は進んで行く。心臓の弱い人はたまらないだろう。しかもどんな場所でも(横断歩道などなくても)、平気で人が渡って行くのもびっくりした。人と車、バイク、よく事故が起こらないものだ。たまの交差点で、車が止まると、すぐに物売りのお兄さん、子供がやってくる。白い花のレイがあった。良い香りがするのだろう。欲しかったけどがまんした。

 交差点にさしかかり、突然、タクシーがエンコする。「またかいな」。運転手さんがボンネットを開けてごそごそすると、なぜか動き出すから不思議。やっとこさタクシーが、アーバンヘルスセンターの向かいの道に停車する。えー、この道を横断するの?どうやって、こんな車がびゅんびゅん通る道を渡るんだろうと思うが、仕方がない。決死の思いで横断する。車の切れ目に渡り始めた。向こうから車がやってくると思ったが、日本の感覚のまま、あの車は減速するから渡れるわとタカをくくる。だが、インドの車は減速しなかった。ぼーぜんと立ちすくむ私の前後を、車とオートバイがすり抜けて行った(^^;;。

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2004-03-05

ガネーシャ

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 画像のアップに挑戦しました。うまくできるかなぁ?
 これは、前の記事に出てきた、インドのヒンズー教の神さま「ガネーシャ」です。お土産にいただいた「時計」の中のガネーシャを写しました。
 象の鼻は、必ず左に曲がっていないといけないそうです。お腹も、ぽこんと胃のあたりから脹れてないとだめみたい。

 ガネーシャは、シヴァ神の息子。シヴァの奥さんバールバティーが美少年の息子を作り出して、大喜び、そのまま外出しました。その間に夫のシヴァが帰宅。なんじゃ、わしの家にいるこの美少年は!怪しいやつ!ということで、首をちょんぎってしまいました。その後帰宅した妻は激怒。なんせ妻は戦争の神さまなので、さすがのシヴァも閉口。わかったわかった、最初に通りかかった動物の首を落としてその首をつなげてやる〜と言ったのです。で、最初に通りかかった動物が象さんだったことで、美少年のガネーシャの頭は象になってしまったとさ〜。

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2004-03-04

インド人の英語

 今回、ひさびさに通訳(逐次)をやった。普段は、翻訳の仕事をしており、せいぜい京都観光の案内ぐらいなので、本格的なのは久しぶりである。
 さて、インド人の英語は訛っている。いえ、アジア人の英語の訛りは、昔広島アジア大会で通訳した時に、身にしみて洗礼を受けたはず。中国語にはある子音の発音がないため、中国人のその子音は全て別の子音に変わってしまっていた。タイのおにいちゃん、香港、スリランカ、バングラディシュのお兄ちゃん(プレスセンターにいたので、みんな男だった)、みんな独特だった。

 だが、インド人の英語には正直閉口した。何が一番困ったかって、人によって訛り方が千差万別だということだ。フランス人の英語、ドイツ人の英語、中国人の英語、国によって訛りはあっても、訛り方には一定の傾向があるものだが、インド人は人によって個人差が激しい。それは母国語(インド国内の母国語)のせいなのか、生まれと育ちのせいなのか、ともかく人によってこれほど個人差が激しいとは思わなかった。さすがに、上位カーストと思われる人の英語は比較的きれいだが、それでも、独特の訛りがあった。

 そう、第一日目のしょっぱな、BLP所長のプレゼンテーションを通訳しているときだった。「ゴブルメン」と聞こえる。最初に頭に浮かんだのは、「え?グルメ」(んなわけないやろ)、次に頭に浮かんだのがテレビゲームに出てくる怪獣「ゴブリン」、所長の顔にゲームキャラクターのゴブリンが突然、重なった(ちょっと似ていた・・・)。んなわけないやろー。そこでようやくgovernmentだと判明した。そう言えば、出発前に読んだ「アジア英語辞典(三省堂)」にインド人は綴りのまま発音し(Wednesdayはウェドネスデーになるらしい)、しかも「r」の子音を「ル」と発音するから全く違う単語に聞こえると書いてあったことを想い出した。そうかぁ、ガバメント(government:政府)はゴブルメン、「ナース」は「ナルス」になるのねぇ。

 その所長の英語、時々、文頭の「W」が「V」の発音に変わることも発見・・・。はぁ、大汗かきました。所長の英語に慣れたと思ったら、ジョティスのシスターはまた独特の訛りを持っていた。アーバンヘルスセンターのワーカーたちは、またかなりきつい訛りをもっていた・・・。はぁ、インド人の英語に慣れるのは大変だぁ。こればかりは、日本で鍛えようがないというか、それこそon job training、失敗しながら覚えていくしかないようだ。

 ここで「教訓」 インド人の英語、「r」を「ル」と発音して、全く違う単語に聞こえるので注意が必要。
 

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インド旅行記−BLP

 12日の午前は、BLP(Bombey leprosy project)の活動エリアを見学した。ムンバイで、ハンセン病のために活動しているNGO団体である。

 最初に連れてもらったのは、綺麗な住宅群(日本で言えばマンションにあたる)の一角にあるセミナーハウスだった。それまでのごみごみとした町並みから一転して、高級そうなアパートが建ち並んでいる。横にはプールがあって、何人かがプールを利用していた。聞けば、この住宅の住人たちのものだという。男女の別はないと言っていたが、プールに入っていたのは男性ばかりだった。入り口を入り、エレベータを使って4階にあるセミナーハウスに通された。日本で言ってみれば、マンションの一室を利用しているのと同じ状態である。回りは一般の住宅で、戸口の上に金色のガネーシャ(ヒンズー教の神さまで、頭が象。富や商売の神さまで人気がある)が飾ってある部屋もあった。窓の外には、ヨーロッパ風の幾何学的なとても美しいな公園、そこだけが別世界のようだった。

 入り口を入るとすぐに小会議室のような部屋があり、机と椅子、プレゼンテーション用のノートパソコンがセットしてあり、 すぐにBLP所長によるプレゼンテーションが始まった。

 BLPは、ドイツの団体によって1976年に創設された。組織的には小さいため、大きな施設は持たず、コミュニティーの中に入って活動する方法をとっている。ムンバイの総人口1100万人のうち、その約半分である貧困層が600万人、その内の60万人がスラムに住んでいる。世界最大のスラム街がここムンバイにあるのだ。衛生状態が劣悪であり、それがハンセン病が多い原因となっている。ハンセン病患者は日本のように隔離されることはなく、共同体の中で不自由を強いられながらも生活している。というより日本のような小さな国に比べてインドは大国であり、患者の数も桁違いに違う。収容する施設を作るよりは、コミュニティの中で治療を行い活動を行う方が、実際的であり、効果的であるようだ。

 BLPは都市部から40〜80km離れた農村地域にいる人々のケアも行っており、週に一、二回郊外に車で出かけてハンセン病患者を訪問している。片道100km近くも移動することがあるという。農村部の対策は遅れており、どれほどの患者がいるかまだリサーチ中である。

 ハンセン病患者の発見にはワーカーたちの力が欠かせない。ワーカーたちは、迷路のようなスラムの中に入って行き、皮膚に現れた「色斑」を手がかりに患者を捜すという。次に連れて行ってもらった低所得者用団地の一室を借りた「トレーニングセンター」にカルテがあったが、そのカルテには病歴の他、その人の出身地からどこに移り住んだか、家族関係、どのような教育を受けたかという履歴が全て載っていた。特に目を引いたのが、地図。スラムには当然「住所」というものがない。だから患者の居住地を特定するために、どの角を曲がってどうやって家までたどり着くかが図入りで記載されているのだ。

 元患者たちのリハビリの一環としては、先の「トレーニングセンター」で、日本の総領事館からODA一環として寄贈されたコンピュータを使ってパソコンを教えたり、女性たちに裁縫を教えたりしている。パソコンの画面を覗いてみたが、「ワード」を使った文書作成や、描画機能をつかったグリーティングカード作成が行われていた。このパソコンを教えているトレーナーは、小児麻痺を患った後にハンセン病にかかった元患者の青年である。指が変形しているが、非常に聡明で、上手にまた的確に指導していた。

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2004-03-02

インドのマサラムービー「ボンベイ」

今日のニュースで、イラクにあるシーア派の聖地で21年ぶりに行われたお祭りで爆弾テロがあったと報じられた。私はイスラム教徒でもないし、シーア派がどんな派なのかよく知っているわけでもないが、自分が大事にしているものが破壊されるという事態に、何かしら胸をかきむしられる思いがした。

 ちょうど、先日、インドのマサラ・ムービー「ボンベイ」(マニ・ラトナム監督)を見たばかりだったせいもある。
 日本でも数年前にインド映画の「踊るマハラジャ」が流行ったが、歌と踊りを交えたインド独特の映画を、マサラ・ムービーと呼ぶらしい。マサラとは、スパイスのこと。ごちゃまぜスパイスという意味である。
 「踊るマハラジャ」は実は「タミル語」の映画である。先日行ったボンベイは、「ボリウッド」とも呼ばれる映画の町だが、タミル語は話されていないために、町中ではほとんど上映されないのだという。その代わりヒンディ語のマサラ・ムービーが人気である。

 せっかくだから、タミル語と同じくヒンディ語のマサラ・ムービーも見てみようと思い、「ボンベイ」という映画を見た。この映画、前半は甘い甘いラブストーリー、歌も踊りも豊富でとても良い雰囲気。ヒロインのマニーシャ・コイララはひたすら可愛い。イスラム教徒とヒンズー教徒との禁断の恋を描いており、ロミオとジュリエットのインド版か〜?って思わせる展開なのだが、後半は一転。実際にボンベイで1992年に起こった「イスラム教モスク襲撃事件をきっかけに起こった暴動」(アヨディヤ事件)を題材にした問題作である。

 ヒンズー教徒とイスラム教徒とは絶対に結婚できない状況の中で、二人は愛を貫いて結婚する。そして双子が生まれる。この一家は、二つの宗教の中で苦悩する。親も苦悩し幼い子供も苦悩する。そして可愛い孫を思う、それぞれの祖父母も苦悩する。和解が見え隠れするなか、過酷な暴動が一家を翻弄する。

 この映画は、確かに宗教で争うことの愚かさを描いている。そして宗教を隠れみのにした「政治」の力が争いを起こしていることを見抜いている。そこには、よく日本でありがちな「だから宗教は嫌いだ」といった宗教や信仰心を否定するような論調は見あたらない。宗教や信仰心は人の生き方の根幹に関わる大事なもの、ヒロインはヒンズー教徒の夫と結婚しても、一生アラーの神を信仰し続けるであろう。二者択一ではなく、共存しあえる世界を、そんな世界がちらっとかいま見えた。

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飛行機の中で

さて、いよいよインドに出発するという二日前から、あれこれ考えては緊張し、夜が眠れなくなっていた。
私は音楽家ではない。オペレッタを英語に翻訳したことから、通訳として同行することになったのだ。インドといっても耳にはいるのはあまり良くない噂ばかり、あー、インドってどんなところなんだろう。仕事で通訳するのは久しぶり、うまくできるだろうか、ひさびさのインド人の英語分かるだろうか、どんな話が交わされるのだろうか・・・。

 そんな不安を一掃してくれたのが、シンガポールからムンバイに向かう飛行機の中で、たまたま隣に座っていたMr. RAJUだった。
 Can I speak to you?(お話してもいいですか?)と思い切って聞いてみたら、Sure(もちろん)と返って来た。聞くと、セラミックレンズメーカーの仕事で名古屋にもいたことがあったという。名古屋で入った温泉が最高だったとか。今はジャカルタからの出張帰り、家に帰るのは2週間ぶりだそうだ。家へは、ムンバイで飛行機を国内線に乗り換えて、さらに1時間かかるという。

 雑談は、すぐに即席ヒンディ語講座になった。ずっと疑問だったナマステとナマスカールの違いを聞く。ナマスカールはall systemで使えると言うのだが、このall systemの意味するところが、分かるようで今ひとつよく分からない。あれ?どんな階級(カースト)にも使えるってこと?それともどんな組織でも使えるってこと?言語体系のこと?どうも違うらしい・・・。よーく聞いてみると、つまりは全ての人対象にどんなシチュエーションでも使えるということらしい。ナマステは向こうから人がやって来た時に交わす挨拶。人と人が出会ったときの挨拶。ナマスカールは一般大衆に向かって使える言葉、そういえば、飛行機の中のアナウンス、最初がナマスカールだったわ。
 セラミックレンズのシステムエンジニアであるMr. RAJUは、どのシステムでも使えるというsystemを派生させて、あらゆるシチュエーションで使えるという意味に派生させたらしい。インド人の英語、さすがに言葉の使い方が自由で、独自に派生させた意味を使うようだ・・・・。

 Mr.RAJUは、機内食はベジタリアンを食べた。完全なベジタリアンで、卵もチーズも乳製品も食べないという。タンパク質はどうするの?って聞いたら、豆類があるから大丈夫だという。ベジタリアンにもいろんな段階があるそうだが、卵も乳製品も一切、もちろんお酒も取らない人のこと(宗教上の理由で)を、「サカハリ(sakahari)・ベジタリアン」というらしい。とはいえ、Mr.RAJUにはタンパク質(protein)という言葉が通じなかった。英語を話すとはいえ、語彙にはやっぱり偏りがあるんだなぁと(もちろん日本人も一緒だが)思った。

 インドには公用語が十数種類あるという。インドは18州に分かれていて、それぞれで話される言葉が完全に違うのだ。方言レベルではなく、完全に異なる言葉らしい。だから、子供たちは学校で母国語(mother tongue)の言葉(その地方で話されているタミル語などの言葉)とヒンディー語、そして英語を習うのだという。Mr.RAJUの子供はさらにフランス語を習い、日本語も習わそうとしているらしい。うわー、すげーーとひたすら感心する。

 Mr.RAJUは、ヒンディー語の便利な言葉(Good words)をいくつか教えてくれた。その中にあったのが、See you againを意味するフィル・ミレンゲー。これは、ほんとに素敵な言葉だった。私が機内で最初に覚えたヒンディー語。再会を約束する言葉。そう、たった一度きりで終わるのではなく、これからに繋がる言葉。インドでの活動を今後に繋げていく重要な言葉だった。

 RAJUは、マハラジャのラジャから派生した、kingを意味する名前だという。飛行機を降りる時に、何かあったら連絡しなさいと名刺を渡してくれた。あー、なんていい人なんだろう。あーー、インド人って親切やん、単純にも私のインドに対する不安は一挙に溶けて、突然明るい未来が開けた。そう、だから、Mr.RAJUにはいくら感謝してもし足りないのだ。

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2004-03-01

インドに行ってきた

インドに行って来た。初めてのインドである。
個人的には、タイやカンボジアには興味があったが、インドは興味の対象外であった。
ところが、因果は巡る糸車、ひょんなことから、あれよあれよという間にインドに行くことになってしまった。
さる音楽を主体にした某ボランティア団体の活動の一環で、インドはムンバイでオペレッタの公演をやることになったのだ。なんだか非常に荒唐無稽な話に聞こえるだろうが、このボランティア団体、ずっと10年近くにわたり、日本国内のハンセン病の元患者さんたちをサポートし、療養所等でコンサートを開いたり、ライトハウスでミニコンサートを開いたり、またチャリティコンサート等も開いて、様々な活動をしているのだ。

 ハンセン病の元患者(回復者)たちは、国が行った隔離政策のせいで未だに根強い差別にさらされている。病気は完全に完治しているにもかかわらず、目に見える形で障害が残ったために、どうしても偏見の目でみられるのだ。元患者は、療養所に完全隔離され、子孫を残させないために断種手術までが行われた。ほとんどが家族から断絶され、しかも療養所内で結婚しても子孫をのこせないため、天涯孤独の方々が多い。
 
 きっかけはひょんなことかもしれない。この団体の主宰の父上がインドでハンセン病治療に一生を捧げた医師であり、17年前にインドの地で亡くなったのである。ハンセン病は、非常に感染力が弱い菌で、通常の状態で感染することはない。しかも治療薬が開発されており、完治する病気である。ただ、この病気は、環境を含めた生活水準に比例する傾向がある。劣悪な生活環境で病気の発生率が多いのだ。今の日本では根絶した病気だが、インドでは今なお多くの患者が存在する。

 そこでインドである。元患者の方々がインドのハンセン病患者の子供たちをサポートしたいと願ったのだ。何かできることはないだろうか、何ができるのだろうか、それを問いかける旅でもあった。

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作ってみた

ココログというのがあるらしいと、聞き、やってきた。
いろいろいじっていたら、ウェブサイトができてしまった。
少なくとも過去数年間、何度もホームページを作ろうと決心し、題材をためながら(ためすぎた?)、とうとうできたのは一つだけ。当時遠くに住んでいた両親のため、改築中の家の進行状態を毎週写真におさめただけの超おそまつホームページだけだった。
両親は非常に喜んでくれたが、他に閲覧者がいるはずもなく(^^;;
今もどこかに眠っているはず。アクセスの仕方も忘れたかもしれない(;^_^A アセアセ…
漂流する幻のホームページ。

なんと今日は、記念にもなる3月1日。
キリがいいではないか!
こういうのが長続きする秘訣かも・・・

つぶやき:
去年の年末、一念発起してホームページビルダー買ったんだけどなぁ・・・(もちろん未開封)。

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