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2005-10-20

ぞうさんをヒンディー語で歌おう

zou←大きくなります

下の記事、「モンスーンの子どもたち」のコメントで話題に出たので、ついでにご紹介。

今週の土曜日に、ある小学校で、インドのオペレッタをやります。これは、私がインドでのボランティア活動にはまりきっかけになった音楽劇です。日本の弁財天って、実は、インドのヒンドゥー教のサラスバティという神さまから来たもの、二人は実は血の繋がった姉妹だったというお話を歌に乗せて演じます。二人とも女神、川の神さまであって、両方とも琵琶とヴィーナという楽器持っている芸術の神です。他にもシバ神とか、大仏とか、象の顔をしたガネーシャという神さまも登場します。
 私は、弁財天楽団の一員で、鈴持って登場するだけの端役です…

 このとき、オペレッタの後になぜかヒンディー語で「ぞうさん」の歌を歌うことになりました。「ぞうさん」の歌は、実は、戦後すぐにインドのネルー首相が日本にインド象を贈ったとき、記念に作られた歌。その時贈られたぞうさんは、「インディラ」という名前でした。

 ということで、ヒンディー語で歌ってみたい方はどうぞ。
 ヒンディー語と日本語は、よく似ています。です・ますにあたる言葉もあるし、語順も同じ、日本人にとっては馴染みやすい言語です。
 ヒンディー語の文字も、ハングルと同じく「母音」の字と「子音」の字の組み合わせで音ができています。つまり、カという音なら、ローマ字で書けばka、子音のkと母音のaで出来ているわけで、子音と母音の組み合わせだけ覚えてしまえば、とりあえずは読める(意味が分かるかどうかは別問題…)というわけです。


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2005-10-10

モンスーンの子どもたち

concert←ムンバイのモンスーン教室(日本のプロジェクト名は光の教室)で行ったコンサート。私たちのコンサートの後には、インドの子どもたちが歌を披露し、ダンスを披露してくれた。この子は、ヒンディ語で歌を歌ってくれ、また、コンサートが始まる前には、ヒンディ語の発音指導までしてくれた。

 さて、ムンバイでは、私が関わっているボランティア団体が支援している学校を訪問した。半年に一度、その学校がうまく運営されているか、見に行くわけである。学校は、ハンセン病病院の敷地内にあり、そこには小さな野外劇場がある。今回は、そこで、子どもたちのためのコンサートをやらせてもらった。まぁ、ボーパールでのコンサートの小規模版という感じで、ざっくばらんな雰囲気で、他のメンバーたちは歌やダンスを披露した。私がやった野バラのヒンディ語での説明も、「ぞうさん」のヒンディー語版の歌の披露も、つまりは、ここでリハーサルをやったようなものである。しかも、野バラの説明では、モンスーン教室の子どもに「発音指導」までしてもらった。終わった後、ヒンディー語で「分かった?」と聞くと、一番前に座っていた小さな男の子が首を横に振ってくれた(インドでは、首をかしげる動作が「イエス」の意味になる)ので嬉しかった。

 この学校は、半年に一度訪問しており、今年の2月にも行っている。
 そのときは、日本の小学生からのプレゼントを持って行き(ボーパールのところで書いた、姫路の小学生との交流)、千羽鶴や子どもたちが書いてくれた写真付きの文章を見せて説明した。今回の訪問では、そのお返しとして、子どもたちから日本の子どもたちへ手紙を預かった。
 
 お昼には給食を出してもらっている。これは、ご飯が満足に食べられない子どもたちが多いため、栄養を補給する意味合いと、あと、「ご飯が食べれるから学校に行こう」というモチベーションを高めるため。子どもたちが着ている青い制服は、私たちの支援で支給されたもの。定期的に通って来る子どもたちに支給されているようだ。

monsoon

 インド側のパートナー(実際に子どもたちの面倒をみてくれるのはインド側のパートナー)BLP(Bombay Leprosy Project)は、お医者さんの集団で、子どもたちの健康診断を定期的に行ってくれている。データに載っているのは、定期的に教室に来る子どもたちで約40人。後は、不定期あるいはたまたまやって来た子どもたちが30人から40人。健康診断をするといっても、全員がそろうわけではなく、追跡できない子どもたちが倍近くいることになる。
 
 データを見てびっくりすることだが、誕生日は記載されていない。誕生日が分からない子も多いようだ。また、住所の欄を見て驚くのは「○○学校の向かい」「○○の近く」という記載がほとんどということ。そう、子どもたちが住むスラムに住所はないのだ。

 前の訪問のときに仲良くなったラクシュミ(上の写真左端の女の子)。一年前の訪問のときにも出会って、顔を覚えていてくれたのだが、今回は会うことができなかった。スラムの子どもたちは、家族ごとでインド中を移動している子ども、生活環境の変わる子どもが多く、いつも同じ顔がみられるというわけではない。恒常的に、持続的にある一定のまとまりで子どもを支援することは、スラムにおいては非常に難しい。

monsoon1
モンスーン教室の先生。真ん中の先生はヒンディ語や英語など、右の先生は地元の言葉であるマラティ語の先生。「A(エー)、P(ピー)、P(ピー)、L(エル)、E(イー)」ときて、「アッペル」(Apple のこと)と発音するのには笑った(^^; 日本語のアップルも同じようなものだが…

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2005-10-09

ボーパール(Bhopal)

bhopalこのところのもっぱらの話題は、インドで出会ったフライトトラブルのこと(「インドから無事帰国しました」の記事を参照)
会う人ごとに、いかに大変だったかを話し、最後は、アーメダバードからの飛行機に雷まで落ちて、赤い火花が散って、機内が一瞬真っ暗になった話をすると、みんな一様に怖がってくれる…
 
 ところで、大きな発見をしたのだが、この話を外国人にすると、ほとんどが「ボーパール」の地名に反応するのである。この同じ話を日本人にしても、「ボーパール」ってどこ?って顔をするのだから、この差は大きい。外国人が、「ボーパールって有名なところだよね。ほら、あの化学工場の事故のあった…」と言いだすと、私は「すごーい、よく知っているね」と、その度に関心していたのだが、どうやら、欧米人特にアメリカとカナダ人にとって、「ボーパール」という地名は、日本人のほとんどが「チェルノブイリ」と聞くと、あーと思うのと同じ比重で、大変有名かつ重要な地名らしい。

 そう、1984年、ボーパールでは、世界史上最悪の化学工場爆発事故が起こり、一瞬で数万人もの人が亡くなった。ユニオンカーバイド社(米国系外国資本)が起こした事故で、猛毒のイソシアン酸メチルが63トンも大気中に放出されたのである。このイソシアン酸メチルのもとは、第二次大戦でドイツ軍が開発し、使用禁止になっている毒ガスのホスゲン。シアン(青酸)系の薬物で、一瞬で、体内の酸素を運ぶ酵素を破壊して脳死にいたらさせる。しかも空気より2倍も重たいこの気体は地面をはい、その上に複数の毒ガスが重層的に重なって漂っていった。この事故、補償もまた刑事責任も曖昧なまま(責任者は逃亡)で、今なお多くの課題が残されているのだが、この事故をきっかけに「基金」が設立されて、ここボーパールに大きな病院(大学を併設)が建設された。

 ボーパールで行なったコンサートは、この病院の音楽堂を借りて行われた。コンサートといっても、どちらかというとインドムンバイで現在行っているスラムに学校を作っているNGO活動のPR。このボランティア団体がもともと音楽を主体とした活動をしていた関係で、音楽と、小学校の先生によるプレゼンテーション(姫路の小学校の先生が、学級活動でインドのスラムの子どもたちと交流した)、そして、自分たちがやっている活動の報告を行ったのである。

 コンサートでは、司会をやらせてもらったのだが、コンサート全体を英語で司会をやるのは初めて…。コンサートは生ものなので、突発的な出来事&事故が発生する。その度に、時間を埋めたり、間を持たせたりしなければならないのだが、最初は慣れないので、台本に頼ってしまった。台本に頼ると、どこまでしゃべったかが気になる。結局、途中から、(話す内容は頭に入っているのだし)台本を外してしゃべればいいんだ!ということを発見。会場の様子を見て、アドリブも入れられるようになって、少しは進歩したかと思ったが、自己採点としては60点かな。

 今回、会場には子どもたちが多く来ていた。子どもたちはあんまり英語が分からない。今回挑戦したヒンディ語による「野バラ」の歌詞の解説(絵本付き)と、ヒンディ語に翻訳した(^^;「ぞうさん」ヒンディー語版は、大いにうけて(日本人が下手なヒンディ語を駆使するのが、微笑ましかったらしい)、ちょっと、嬉しかった… ヒンディ語版「ぞうさん」では、とうとう、マイク持って歌うはめになり、下手な歌手デビューしてしまった(^^)。ご愛嬌。

 ボーパールの事故に関しては、「ボーパール午前零時五分」という本を読んだ。うーん、ともかく悲惨。村ごと全滅したところもあるのだが、そこでただ一人生き残った人は、ヨガの修験者。3分から4分に一回しか呼吸をしないという修行をしていたため助かったらしい。
 

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