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2010-06-21

ちむぐりさ沖縄-その二

 「ちむぐりさ沖縄」のお芝居、次の日の沖縄タイムスに記事になってました。
 19日は名護で公演があったようですが、こちらはどんなんだったのでしょうか。泡盛の酒蔵での公演。ちょっと興味があります。

 さてここからは、沖縄観光編です(^^;
 二日目は、首里城と戦跡巡り。三日目はちゅらうみ水族館です~。

 でも私は重い話担当になったので(^^;、重い話を混ぜて書きます(--;

 首里城、復元されて世界遺産に登録されています。戦火で破壊尽くされたのに、どうして世界遺産?ってちょっと不思議だったのですが、地下に基礎の遺構が唯一1箇所だけ残っていたのです。これがなければ世界遺産登録はできなかったと説明してくれて、なーるほどと思いました。中国と日本を混ぜたような琉球独特の文化、きれいに復元されていました。

 琉球王朝は昔から外国との交流があったため、さすがに外交の達人。ペリーが来てトップとの会談を要求したとき、江戸幕府はそのまま会談に応じて条約を結ばざるを得なくなったのに対し、琉球王朝では、仮の政府を作ってその代表と正殿ではない方の北殿で会談をして、ペリーはそれが正式の琉球政府で正殿だと信じたという話はおもしろかったです。

 次から、戦跡巡り、まずは「海軍司令部」の壕跡へ。
 昨日は陸軍、今日は海軍。海軍司令部の壕、こちらは立って歩けるくらいしっかりと作られていました。中も、電気が通ってました。明るいのだけど、一人で来たら怖くて、絶対に中には入れません。
 ここも陸軍の壕と同じく、戦争末期は廊下も部屋も、身体を伸ばすこともできないぐらい人で埋まってました。暗号室やら発電ブース、炊事室などが揃っており、司令官室もありました。
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 本土のために捨て石作戦とされ苦難を強いられた沖縄県民。軍の作戦のためにもみ消されては沖縄の人たちは浮かばれないと、後生その苦しみを伝えておこうと、沖縄の実情を異例の長文の電文で綴り、最後「沖縄県民かく戦えり。後生の特別の配慮を願う」と締めくくって自決した太田少将。その手榴弾が爆発した跡も、壁にそのまま残されていました。

 太田実少将の電文(旧海軍司令部壕のパンフレットから、現代文)
 「昭和20年6月6日 20時16分発
 次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取りはからって下さい。
 沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができず、代わって緊急にお知らせいたします。
 沖縄に敵の攻撃が始まって以来、陸海軍ともに防衛のための戦闘にあけくれ、県民に関しては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部防衛のためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに身体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。
 しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が生き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。
 看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身よりのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定されたとき、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
 これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることなく、この戦闘の最後を迎えてしまいました。
 沖縄の実情は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草がすべて焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。
 沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後生特別のご配慮をしてくださいますように。」

 資料館もあったのですが、なんせ観光バスのツアーは、5分刻みのスケジュール。ここもこの後のひめゆりも、平和祈念資料館も、駆け足でじっくり見られず、心残りでした。

 次は言わずと知れた「ひめゆりの塔」。ひめゆりの塔に行くまでに、バスの中でひめゆり部隊の話を聞きました。今でも語り部として、当時の生存者がお話をしてくれています。BIGINで有名になった「島唄」あの歌に隠されたもう一つの意味も語ってくれました(実は知っていたのですが、本当にそうだったとは知らなかったのです)。ここの資料館には、最後の部屋に証言がいっぱい残されていて、ほんとうに胸が痛みます。(語るに言葉が足りません)

 そして平和の礎、祈念資料館。。ここには、沖縄戦で犠牲になった人の名前が刻まれています。6月23日は沖縄慰霊の日、沖縄戦が事実上終結した日です。そのため、石碑の前にはお参りをする人が見られました。どこでどのように亡くなったかもわからない、お骨もどこにあるのかわからない、そんな家族のために、家族の名前が刻まれたここで、家族の名前をなぞりながらお参りをしていたのです。それを見ていると胸がいっぱいになりました。
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 ここには沖縄の人だけでなく、沖縄で亡くなった本土の人の名前、そして外国人の名前もありました。もう二度と戦争を起こさない、平和の波を沖縄から発信していこうということで、真ん中にある泉は沖縄を中心にして、さざ波が四方八方に広がって行きます。噴水から外へは波形をしたタイルでさらに大きく広がり、その外に波の形をした石碑が取り囲んでいます。

 戦争で犠牲になった人を記念するモニュメントは世界各地にありますが、(敵である)外国人を含めて、戦争で犠牲になった人を記念して平和の祈念をする場所は世界中探しても唯一ここだけだそうです。憎しみや悲しみを超えて、それだけ平和への祈念が強いことに感動を覚えました。

 すぐそこは海。海はどこまでも青く空もどこまでも青い。ひめゆりの塔からはすぐで、ひめゆりの洞窟から出て走ったら海があったという証言に納得しました。この海が軍艦で埋まって真っ黒だったのです。しかも左手には、suicide cliff 、前と後ろから追い詰められて海に飛び込んでいったという崖です。資料館も見たかったのですが、ここは全く時間がなくて、次回への持ち越しです。
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 ガイドさんが、あの大戦から以降、沖縄では「命どぅ宝」という言葉が大切にされていると言っていました。まだ若いガイドさん、親の世代も戦争を知らない戦争を知らない二世だそうです。それでも自分が知ったこと学んだことを、自分の言葉でさりげなく語り、訴えているところに、私は(ガイドとしても)非常に感動を覚え、学ぶところが多かったです。

 さて、ここからはがらっと変わり、リゾート沖縄(^^;
 二日目の最後は、沖縄ワールドに行きました。が、ここも鍾乳洞で時間を使い果たして、全然時間が足りない。あれも食べたい、これも飲みたい、あれも見たい、これもやりたい…でしたが、唯一、沖縄の衣装を着て、コスプレしただけでした(^^;

 みんなは大きなニシキ蛇のアルビノに触って喜んでました…(--; 私も喜んで蛇に触ったものの、これ、無理! 思っていた感触と異なり、さらさらしていたけど、なんだか妙に柔らかくて、絶対に無理。。。みんなはそのさらさら感と、可愛い顔が気に入ったみたいで、可愛い~~(はぁと)ときゃーきゃーと蛇と戯れてました。
 が、私はそっとその場を離れて、一人寂しく(?)エイサーを見てました。。。(^^; 

 エイサーは踊り手が若くて躍動感満載でめっっちゃ楽しい。最後のエイサーの5分間、みんなでカチャーシーを輪になって踊りましたよ~。。。踊らにゃ損、損の乗りです。。あー、楽しかった、けど、もっといたかった。

 ほんと、ツアーは時間が足りない。めっちゃ消化不良。。。。資料館もじっくり見たかったので、次回(っていつ?)への持ち越しです。

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(その三につづく)

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